私は要らない子 その2




少し遡る、詳しく言うと引っ越したのは小学5年生ではなく、小学4年生の三学期、姉は卒業の年でこのまま今の小学校を卒業したいと、三学期の間だだけ、隣の市なので2人でバス通学をしていた。


学校に行けば朝から友達がおはようって私の机を囲んであれこれを楽しそうに話してくれた、一番楽しかった

引っ越しはしたくなかった、このまま一緒に中学生になりたかった。

この学校でいじめはない、多少の友達同士のいざこざくらい

私はバス通学をしていたから学校に多少お金を持って行っていた。

それを知っている友達だった子にお金を盗まれた、それくらいかな

悲しかったけど、友達でもそういう事をする人がいると知った。

返してもらった記憶はない。





新学期から私は新しい小学校で5年生、姉は中学生

姉とはよく喧嘩するけど、周りより仲が良い姉妹だった

姉への羨ましさと劣等感が凄くあったけど、そう思わせたのは親だから姉に対して恨みは無い。



その引っ越しから全てが変わってしまったと思う。


新しい生活が始まって1年経たないうちにおばあちゃんが呆けだした、最初は猫にあげたはずのキャットフードが目を離したらなくなっていたり、冷蔵庫の食べ物や調味料の無くなり方が尋常じゃないくらい早かった、これはおかしいとみんな思い始めていた。

のちに冷蔵庫に鍵をかける事になる。

トイレでトイレットペーパーを流さずトイレのタンク下に溜めていく…

さっき行ったばかりの犬の散歩に帰ってきてから5分経たないうちにまた連れ出す

自分の装飾品を近所の人にあげる

これを盗られた盗まれたと騒ぎ出したり

元々所持金がないのにお金が盗まれたと言うようになり

極めつけはよく聞く「ご飯まだ?」

4つ離れた市まで徘徊


私は母方のおばあちゃん子だった、父親になにか言われて泣いてもおばあちゃんだけは私の味方だった、悪い事をすればちゃんと叱ってくれたし、私を素直だと撫でてくれた。

おばあちゃんは綺麗好きで毎日掃除機から雑巾がけ、布団を干して、汚れた学校の衣類の洗濯、食事の買い物、料理、犬の世話、親の迎えが必要なら母親ではなくおばあちゃんが来てくれて、なんでもこなしていた。近所の人からも「働き物のおばあちゃん」と言われていた、おばあちゃんにしては若々しくていつも元気だった。

それが引っ越してから徐々に変わってしまった。


アルツハイマー認知症 まだ60前半


大好きなおばあちゃんが人間じゃなく感じた

言葉が通じない、言ったことを理解してもらえない

思春期真っ只中、おばあちゃんがおかしくなった現実に耐えられなかった

おばあちゃんに話しかけられても無視をして、部屋から出ていけと蹴ったり殴ったり暴力を振るうようになった。

おばあちゃんが部屋から出ていった後は自己嫌悪と悲しくて泣いた。

おばあちゃんに包丁を向けたこともある

どうして伝わらないの?分からないの?堪らなくなって手を出してしまう自分が、大嫌いな父親と同じ事をしているんだと気付いた時、もうどうでもよくなった、考えることを放棄した。


小学6年生、学校に行かなくなった。


登校拒否の始まり、部屋に籠るようになった。


学校に行かない私を母親は強く批難した。



引っ越す前、近所に幼馴染みがいた。
姉と弟の2人姉弟。年は姉が私の姉と同じ、弟は私と同じ

幼稚園の頃からずっと4人で遊んでいた

その弟は幼稚園の時から登校拒否。
登校拒否と言っていいのか分からないけど、幼い時から家ではない集団生活に入る事を拒んでいた。

幼くして父親と離され寂しかったのかもしれない、こちらの家は母親がいつも姉に強くあたり弟を甘やかしていた、親離れ子離れが出来ていなかった。


そんな幼馴染み弟を、私の母親はゴミを見るような目で見下し批判していた、体育会系昭和の精神論タイプの母親は「甘いから」「弱いから」あんなになるなんで信じられないと日々呆れていた。


そんな中私が不登校になる、自分の母親が認知症になった事に母親本人も参っていて、私は咎められる事は、この時はまだ少なかった。父親に漫画を破り捨てられたくらい。


何故か幼少期から大人の男の人が怖かった。


父親のせいで更に恐怖の対象が、まだ子供の私にとって大人の男になった、だからなるべく避けて生活した



中学1年

小学校と違い先輩後輩の上下関係、先生へのタメ口禁止、校則、部活、色々な縛りができながら集団生活に溶け込もうとしていた。

小学生の時まで勉強というものを全くしてこなかった


宿題はある程度やっても予習をする習慣もなく
第一に勉強のやり方が解らなかった。

それでも中学校からは真面目に勉強に取り組もうと思ってた。

部活もやりたかった、姉が途中で辞めたテニス部、親は姉が続かなかったからとテニス部には入るなと

仕方なく入った吹奏楽部、1年生はフラッグ

全ての曲のセンターを任された、楽しかった。







中学初めての体育の授業がある日、事は起こった。


6クラスある中、3クラスごとに授業を受ける

向かって真ん中辺りに体育教師

1組男子○……………………………………………背が高い→○
2組男子○
3組男子○
1組女子○←小さい順に横並び
2組女子●
3組女子○

●が私の位置、教師から見たら後ろの右端に私がいることになる。


体育の授業前に音楽に合わせてストレッチをする
(サザンオールスターズTSUNAMIに合わせて)

これのせいで大好きなTSUNAMIがトラウマソングになる


曲が2番に差し掛かった時

ピッ…「2人組になって下さい」


学校生活でよくある事は、名前の順・背の順
あ行から始まり、背の低い順に始まる

前の順って言われるもの


この体育のストレッチは違った。

中学初めての体育、体育教師は強面、みんなどう2人組を組めばいいかオロオロ…

私は隣にいた子と2人組を組もうとした時

「後ろから2人組を組め」

???

なんで?頭がはてなになりながら後ろから組まれるのを待った。


そして私一人が余った。


私のクラスだけ女子が奇数だった


硬直している私に「余った奴早く来い!」

父親のせいで大人の男の怒鳴り声にトラウマがある私の思考は止まりかけた


とぼとぼ後ろから前へ体育教師のいる所に近付く

「早く来い」

心拍数が飛んでもない早さで上がるのが分かる

体育教師の前まで行くと、ストレッチのお手本を見せるとハリキリ全身をベタベタ触られ3クラスの前で何分も手を捕まれ持ち上げられた。

目の前にいた思春期の男子はニヤニヤしてた。

恥ずかしさと気持ち悪さで放心状態

頭の中は「なんで?なんで?なんで?体育委員は?体育委員がやるべきじゃないの?え、気持ち悪いどうしよう、触られたくない、なんで後ろから組むの?嫌だ気持ち悪い」

ストレッチは終わり、パニックになりかけながら自分の場所まで戻った。

誰だったか女の子が「大丈夫?顔真っ青だよ」
そんな声が聞こえたけど返事をするメンタルはなかった

兎に角終わった、落ち着け、気持ち悪かったけど耐えた

頭の中でどうにか自分を落ち着かせようとした時



「今日は初めてのストレッチだからもう一度やる」



絶望とはこの事かと中学1年ながら思った。

TSUNAMIが流れ始めて頭の中は「どうしようどうしよう、また組まされる触られる気持ち悪いイヤダイヤダ嫌だ」

そう考えているとあっという間に

ピッ…「2人組になって下さい」


心臓が止まった気がした。

隣の子は一応私を気にしているみたいだった

硬直して動けない私に

「おい、さっき余った奴早く来い!」

怒鳴り声が聞こえたけどもう無理だった、パニック寸前

「おい、聞いてるのか!早く来なさい!」

そう言ってどんどん近付いてくる…


「いやです…」

近くにいる女子にしか聞こえない声で抵抗した、それでもどんどん近付いてくる体育教師…

「おい!早くしろ!」





「嫌です!!!」





一瞬にして授業を受けていた全員が私の方を見た


もう限界だった、

「嫌です!!!先生とは組みたくないです!どうしてみんな友達、生徒同士で組んでいるのに私だけ先生と組まなきゃいけないんですか!やめて下さい!」

叫んだ、気付いたら叫んでた。他にも色々叫んでたと思うけど、詳細には覚えていない、頭はもうパニック、触られたくない一心で泣き叫んだ

「なにバカなこと言ってるんだ!早く来い!」

目の前まで来た体育教師、手を捕まれそうになって

「嫌、嫌です」泣き叫び嗚咽で呼吸ができない

ちらっと周りを見渡した

あまりの拒否にその場にいた全員が一連の流れを凝視し手を止め虚しく流れるTSUNAMI、曲が止まると教師は戻って行った。


そこからは授業の記憶はない、ずっと泣いていた

授業が終わり、戻ろうと言ってくれた友達の言葉を掻き消すように

「他の奴は早く教室に戻れ!お前は残りなさい」

もうその場に立ち尽くして泣くことしかできなかった

校庭の真ん中に座らされた。

私の嗚咽と無言が続く

「先生の目を見るまで話は始めない」

視界にすらいれたくないのにまだそんなことを言われるのか、次の授業の後半クラスがもう集まって来ている。

吐き気を抑えて体育教師を睨み付けた

説教なのか言い訳なのか慰めなのかとりあえず自分は悪くないと言わんばかりの話を始めた、もうそんなことはどうでも良かった、早くこの場から逃げたかった。

話が終わったのは予鈴がなって後半クラスがほぼ揃ってからだった

友達や周りにいた人が「なんで泣いてるの?」って話しているのが聞こえる

恥ずかしくて教室まで全力で走った

教室についてから心配してくれた友達を無視してずっと泣いていた。

次の授業は国語だった、テストだったけど、気持ちの整理がつかなくて涙が止まらなくて白紙で提出した。

休み時間に国語教師が来て理由を聞かれた、国語教師は学年主任


たかが体育教師とストレッチをしただけだと思う人もいるかもしれない、けど当時の私にはどうしようもなく気持ち悪く許せない出来事だった。


この日からまた登校拒否になる

最初は体育のある日だけだった、途中からあの教師のいる学校自体が気持ち悪くて、朝学校に行こうとしても、家の玄関が開けられなくて泣いた。

この頃からIBS過敏性腸症候群パニック障害になる

精神科は心が弱くてキチガイが行くところという偏見がある親だから病院には連れて行ってもらえなかった。
けど、今は診断済み(青年期に起因する)と有り


部活も辞めた


あの日の映像と恥ずかしさと気持ち悪さがなくならない

「大丈夫」「誰も気にしてない」自分じゃないからそう言えるんでしょ、なら代わってよ、代わってくれないくせに

背の一番小さい私が余った。

中学生

背の高い子は発育がいいから小さいのを余らせるのかと思うとより気持ち悪かった、皆死ねと思った。


皆に死んでもらうより、自分が死んだ方が早いと思って、毎日どう死ぬかばかり考えた。


家では「そんなことで学校に行かないのか」母親に言われた

そんなこと…

私がどう感じるかでなく、自分の娘が登校拒否という事実を受け入れられなくて毎日ヒステリックに怒鳴られ否定され「私の娘が学校に行かないなんて、幼馴染み弟と同じなんて信じられない」「私の娘が弱いなんて」「認めない出ていけ」いろんな暴言を吐かれ物を投げ付けられた

いくら言われても学校には行きたくない

行けなかった。



勉強を頑張ろうと思っていたのにあっという間についていけなくなった。


家の中はめちゃくちゃだった、私の登校拒否、認知症のおばあちゃんの介護問題、お金の話、「お前の育て方が悪いから」お互いに押し付け合って怒声が無くならない家


居場所がなかった、死にたかった。



そんなある日大好きな犬が死んだ


私は耐えきれなくなった。





毎日毎日両親に怒鳴られ否定されて、自分でもどうしていいか分からなくなった、頭を過ったのは


目の前で死んでやろう。


自分達が追い詰めたせいで娘が目の前で死ねば多少は後悔してくれるだろうと淡い期待を抱いていた。




この日も怒鳴られ否定され泣いていた

その時に、死ぬのは『今』だと思った

立ち上がりキッチンへ走った、包丁を手にした

後ろから追いかけてきた母親に止められ呆気なく包丁を取られた

私は泣き喚きながら自分の部屋に走った


死ねなかった、本心は怖かった、死ぬこともできないのかと、情けなく思った。



後にあの時父親は殺されると思ったらしい

それほどの言葉を吐いていたと自覚はないと思うけど、なんでそう感じたかは分からない、知らない。






結局中学1年は半分しか学校に通わなかった。

中学2年それが問題になって例の教師は別の学校に飛ばされた。


学校も行かず勉強もできず、私立に行くお金もなく、おばあちゃんの介護費がかかり、IBSパニック障害不眠症で学校に通える自信もなく、高校受験は受けなかった。


今思えば通信とか色々他にも選択肢があったかもしれない、けどそういう制度は知らなかったし調べ方も分からないし誰も教えてくれなかった。


中学卒業してからずっとアルバイト、そんなアルバイトもなかなか続かなくて、転々といろんなアルバイトをした。

家にお金を入れていた、入れないなら出ていけと言われてた、行くあてもないからお金を入れた。


バイト先でおばさん達にイビられたり、先に働いている先輩になにかあれば私のせいにされたり陰湿ないじめを受けた。




本当なら普通に高校にも行きたかった。

高校に進学した友達が羨ましかった。








中学生まで知らなかったけど、
本当は私の上にもう一人子供がいたらしい

その子を堕ろした後に生まれたのが私。

両親は私がおかしくて変わっているのはそのせいだと思ってる、その子にも酷いと思う。


私じゃなくてその子がいたら…
私はいなかった、不要だったんだろう



だから私は要らない子。